清光寺


山梨県北杜市長坂町大八田6600
縁結び・恋愛成就
学問の神様・合格祈願

清光寺の基本情報



名称
清光寺
かな

詳細情報

名称
清光寺
都道府県
山梨
住所
山梨県北杜市長坂町大八田6600
行き方
情報募集中
御朱印
あり
御朱印帳
なし
宗旨・宗派
曹洞宗
山号
朝陽山
開山・開基
興因寺(甲府市)二世悦堂宗穆和尚
創建時代
仁平元年(1151年)
歴史
歴史[編集] 源清光(逸見黒源太清光)は、源義光の孫であり、源義清(逸見冠者義清)の嫡男で1110年に生まれた[1]。後に、逸見太郎や黒源太と称し、谷戸茶臼城を築いた[1]。1151年には真言宗の道場として信立寺を城外に造った[1]。源清光は1168年に亡くなり、信立寺に葬られた[1]。その後、栄枯盛衰あったが、1475年に宗穆和尚が曹洞宗の寺として中興した[1]。里人が「キヨミツデラ」と呼んでいたことから、清光寺と改称された[1]。 ^ a b c d e f 引用エラー: 無効な タグです。「長坂町誌」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
御由緒
清光寺の沿革 当寺は平安時代、仁平元年(1151年)に信立寺と称し、逸見玄源太清光の創建になる天台宗寺院で、清光の没後、清光寺に改められた。その後、文明7年(1475年)、興因寺(甲府市)二世悦堂宗穆和尚が開山となり、曹洞宗に改め、現在に至る。 清光は甲斐源氏の祖、新羅三朗義光(八幡太郎義家の弟)の孫にあたり、最初、常陸国武田郷(茨城県ひたちなか市)にいたが、父義清と共に甲斐国市河庄(西八代群市川三郷町)に配流となる。 その後、谷戸城を築き逸見郷を中心に勢力を広げ、国中を手中に収めて甲斐の国一円を統一し、甲斐源氏としての基礎を固める。次男信義が名門武田家の祖となる。 現在の堂宇は、江戸中期に建てられた総門、山門、本堂を中心に総ひのき造りの庫裡、開山堂、位牌堂を併設した檀信徒会館などがあり、特に本堂は十三間・九間という本山なみの大伽藍を誇る。 本尊は薬師如来、寺宝に勝頼公制札等。本堂裏山に開堂裏山に開基清光公の墓地。境内には芥川龍之介の句碑、大島桜、八重桜、山桜・こぶし、紫陽花・花桃・紅葉などがあり、花の時期は大変美しい。 寺山号の起源 清光公42の厄年一宇を創立して、かねて孝妣の菩提を托せられし宗甫阿闍梨を始祖となし、現当の利益を祈願するの道場となす。これを信立寺という。誠に帰宗に出ずる、寺号において知るべし。しかるに公の没後、里人これを呼んで「キヨミツデラ」という。自然に信立寺の改称となれり。いまだしらず。自ら清光寺と称せしゃ、はた発信創立の故に人呼んで信立寺といいしゃ否や。かつ山号のごときは、生前谷戸城において自ら毎朝、朝暘を遥拝して武門の名声宇内に光栄するを祈念せりと。けだししからん。しかる故に、東方に位する薬師瑠璃光如来を開創の道場に観請する。まことにゆえあるなり。(記:33世大道祖仙) 清光寺の歌 1.法燈こゝに800年 飾る歴史は甲斐源氏 清光公の開基なる 朝暘かゞやく清光寺 2.めでたき御代の汽車の旅 くゞるトンネル夢さめて 中央線は長坂の 駅のほとりに森深し 3.清き霊地の空高く 海抜2500尺 雲にそびゆる大伽藍 峡北一の古禅林 4.右に駒ヶ根 前に富士 後に連なる八ヶ嶽 祟高き自然に御仏 姿を仰ぐ尊とさや 5.断へず流るゝ鴨川も 常住に説くなり法の声 命をすてゝ求めにし 聖者の跡を探らなん 6.菩提心に開く瑠璃の宝殿 真如の月の影に清く われ等の胸の雲晴れて 光明の生活たのもしき
引用元情報
「清光寺」『ウィキペディア日本語版』。この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%B8%85%E5%85%89%E5%AF%BA&oldid=85764653
概要
清光寺(せいこうじ)は、山梨県北杜市長坂町大八田にある曹洞宗の寺院である。本尊は薬師如来で、山号は朝陽山、開基は源清光(逸見黒源太清光)である。
札所
甲斐百八霊場第72番 中部四十九薬師霊場第9番 逸見筋三十三観音霊場第5番 甲斐七福神 布袋尊
体験
御朱印武将・サムライ札所・七福神巡り

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