見本寺の基本情報
詳細情報
御由緒
かつてこの地に真言宗の信蔵寺・顕峯寺という2寺があった。 時の住持と思われる顕峯阿闍梨(後に改めて日向)が法華経の教義を慕い日蓮宗に帰属、2寺を併せて開基となる。 時に1469年(文明元年)といわれる。 見本寺の寺号は、後に元禄の世に及び身延33世遠沾院日亭より賜ったもので、当寺の開山はそれより先。1509年(永正6年)に身延12世円教院日意によったものとされる。 安永・天保と両度の回禄に由緒宝物を失うに至る。 その後庫裡・書院・鐘楼堂は再建されたが、本堂の復興は容易に成らず。 21世日慈に至り、慶応2年、身延より永紫金跡を許された。 明治21年本堂再建を企図し、完成間近の22年9月、風災のため倒壊の厄に遭ったので再び着工、25年4月に至り竣工した。 しかるに22世日逮の代、明治30年4月、3度の祝融に罹り諸堂悉く焼失。 37年に2倍もの広さを持つ堂宇を完備し、身延より永緋金を許された。 『武田誠忠録』によると、美濃の一族の小笠原氏が武田信玄に投じ甲州に帰化して、北巨摩小倉の地に封ぜられ、生国丸毛の郷に因み丸茂の姓に改め代々名主となり、その後丸茂一族は当寺を菩提寺となすという。 檀方に丸茂氏が多いのはこのためである。 寺は身延直末にして通師(裏身延妙了寺)法縁。