清兮寺の基本情報
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歴史
歴史[編集] この節の加筆が望まれています。 明治18年(1885年)官有地であった旧樋沢坊(慶応元年(1865年)に焼失し法雲坊に合併した)の跡地の払い下げを受けて日鑑(身延山久遠寺74世)の隠居所として起工され、翌明治19年(1886年)に完成したが、日鑑はすでに遷化していたため1度も居住できなかった。 明治32年(1899年)酒井文子(旧姫路城主で伯爵酒井忠顕の室、顕寿院長遠妙玄日唱大姉、明治41年(1908年)没)によって本堂が建立された。
御由緒
~身延町誌より~ 菩提梯の昇り口の左手に見える寺で、74世日鑑上人が自身の隠居所として、自普請で建立された。明治18年(1885)9月22日釿初(かんな)め、19年4月落成した。しかし、鑑師は60歳をもってその年1月13日に遷化になったので1度も住居にならなかった。 当時、既に上地官有地となっていた旧樋沢坊の跡地の払い下げを願い、明治18年(1885)10月19日寺号公称の出願をした。時の藤村紫朗県令は、明治6年(1873)から20年まで15年3ヵ月間も本県に在住し、庶政百般に亘り改善策を実行し、仏教界への風当りも強く、廃寺や合併を強行はしたが、新寺建立など特に清兮寺のように、無檀家、無禄の無資格寺院など決して普通なら許可すべき人ではなかった。しかし薩鑑二師とは接触も深く、二師の人物には一目も二目も置いていたので、この新寺建立ということも容易に承認されたものであろう。処で日鑑上人の生前には遂に完成を見なかったので、1月21日の本葬儀当日には、葬列が御草庵へ向かう途中、特に清兮寺へ小憩して御住居に擬せられたと旧記にある。同寺の本堂は鑑師の造立ではなく、くだって明治32年(1899)旧姫路城主酒井氏の室文子夫人(顕寿院長遠妙玄日唱大姉明治41年(1908)3月10日行年65歳)の喜捨をもって建立された。同夫人は毎夏必ずここに暑を避けて、読経に日を送ったという。同寺への丹精は多大であった。また十間四面御草庵旧跡のたまがきは、同夫人の喜捨によるもので、明治25年(1892)冬完成したものである。清兮寺の創立が、いわゆる鑑師の隠居所として出発したこと、また上述のように名門顕寿院夫人の同寺への尽力ということが、清兮寺を貴族的な雰囲気にしてしまい、今日衆庶参拝所として一般が杖を引かない。(明治末期から大正初めにかけて、本山関係の名士は多く同寺に宿泊した)鑑師が幕末東京堀之内妙法寺の院代を勤められた事といい、且つは堀之内の武見日怒上人が清兮寺第2代として、同寺を完成したという関係から以来堀之内の支配下に在る。
引用元情報
「清兮寺」『ウィキペディア日本語版』。この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%B8%85%E5%85%AE%E5%AF%BA&oldid=80978136
概要
清兮寺(せいけいじ)は、山梨県南巨摩郡身延町身延西谷にある日蓮宗の寺院。山号は自厚山。旧本山は身延山久遠寺、通師・堀之内法縁。境内の枝垂桜で知られる。由緒寺院堀ノ内妙法寺の管理。