せいけいじ

清兮寺


山梨県南巨摩郡身延町身延3573
縁結び・恋愛成就
学問の神様・合格祈願

清兮寺の基本情報



名称
清兮寺
かな
せいけいじ

詳細情報

名称
清兮寺
かな
せいけいじ
都道府県
山梨
住所
山梨県南巨摩郡身延町身延3573
行き方
情報募集中
御朱印
あり
御朱印帳
なし
宗旨・宗派
日蓮宗
山号
自厚山
開山・開基
身延74世日鑑上人
創建時代
1885年(明治18年)
歴史
歴史[編集] この節の加筆が望まれています。 明治18年(1885年)官有地であった旧樋沢坊(慶応元年(1865年)に焼失し法雲坊に合併した)の跡地の払い下げを受けて日鑑(身延山久遠寺74世)の隠居所として起工され、翌明治19年(1886年)に完成したが、日鑑はすでに遷化していたため1度も居住できなかった。 明治32年(1899年)酒井文子(旧姫路城主で伯爵酒井忠顕の室、顕寿院長遠妙玄日唱大姉、明治41年(1908年)没)によって本堂が建立された。
御由緒
~身延町誌より~ 菩提梯の昇り口の左手に見える寺で、74世日鑑上人が自身の隠居所として、自普請で建立された。明治18年(1885)9月22日釿初(かんな)め、19年4月落成した。しかし、鑑師は60歳をもってその年1月13日に遷化になったので1度も住居にならなかった。 当時、既に上地官有地となっていた旧樋沢坊の跡地の払い下げを願い、明治18年(1885)10月19日寺号公称の出願をした。時の藤村紫朗県令は、明治6年(1873)から20年まで15年3ヵ月間も本県に在住し、庶政百般に亘り改善策を実行し、仏教界への風当りも強く、廃寺や合併を強行はしたが、新寺建立など特に清兮寺のように、無檀家、無禄の無資格寺院など決して普通なら許可すべき人ではなかった。しかし薩鑑二師とは接触も深く、二師の人物には一目も二目も置いていたので、この新寺建立ということも容易に承認されたものであろう。処で日鑑上人の生前には遂に完成を見なかったので、1月21日の本葬儀当日には、葬列が御草庵へ向かう途中、特に清兮寺へ小憩して御住居に擬せられたと旧記にある。同寺の本堂は鑑師の造立ではなく、くだって明治32年(1899)旧姫路城主酒井氏の室文子夫人(顕寿院長遠妙玄日唱大姉明治41年(1908)3月10日行年65歳)の喜捨をもって建立された。同夫人は毎夏必ずここに暑を避けて、読経に日を送ったという。同寺への丹精は多大であった。また十間四面御草庵旧跡のたまがきは、同夫人の喜捨によるもので、明治25年(1892)冬完成したものである。清兮寺の創立が、いわゆる鑑師の隠居所として出発したこと、また上述のように名門顕寿院夫人の同寺への尽力ということが、清兮寺を貴族的な雰囲気にしてしまい、今日衆庶参拝所として一般が杖を引かない。(明治末期から大正初めにかけて、本山関係の名士は多く同寺に宿泊した)鑑師が幕末東京堀之内妙法寺の院代を勤められた事といい、且つは堀之内の武見日怒上人が清兮寺第2代として、同寺を完成したという関係から以来堀之内の支配下に在る。
引用元情報
「清兮寺」『ウィキペディア日本語版』。この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%B8%85%E5%85%AE%E5%AF%BA&oldid=80978136
概要
清兮寺(せいけいじ)は、山梨県南巨摩郡身延町身延西谷にある日蓮宗の寺院。山号は自厚山。旧本山は身延山久遠寺、通師・堀之内法縁。境内の枝垂桜で知られる。由緒寺院堀ノ内妙法寺の管理。
体験
御朱印

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