松樹庵の基本情報
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御由緒
~御由緒書より~ 宗祖袈裟掛松霊場 松樹庵縁起 日蓮大聖人は、1274年に鎌倉からこの身延山の西谷、今の御草庵跡に入られました。以来9年の間「昼はお弟子さんや信者さんと仏教の話をし、夜は一晩中法華経というお経を唱える」という生活をされていました。 当時の御草庵跡というところは、木々が鬱蒼と生えており昼も太陽の光も当たらず、ましてや夜になると月明かりさえも入らなかった所でした。そのような御生活の中、時折身延山中腹に明るい光を放つ樹があり、その光は御草庵の壁や天井の僅かな隙間から中に入り込み薄暗いお堂の中でお経を読まれていた大聖人の手元を照らしお経を読む手助けをされました。日蓮大聖人は、その光の元である樹を訪ねようと生い茂る草木をかき分け54歳の時初めてこの地に足を踏み入れました。 そこには見事な松の大樹があり、枝は鬱蒼と四方八方に広がりまるで蠢く黒い龍のようで、その松の枝にお袈裟を掛けられ、松の根に腰掛け暫くの間足を止められお休みになられました。 身延山山頂へ参詣の際は、何度となくこの地に立ち寄られ、松の木に御休憩されここから昇る太陽に向かい合掌し、国の平和と安泰・人々の寿命が少しでも長くなるよう祈られたそうです。そのため当庵の日蓮大聖人は『寿命延壽の祖師像』と申し伝えられます。 その後、岡山県赤穂の浅野家家臣・望尾孫右衛門なる方が妻に先立たれ主君浅野内匠頭の仇討ちにも参加出来ず、母と子三人で味無き人生を送っていました。その母も亡くなり一つ菩提心を起し、1703年に母の遺骨に主君と四十七士の戒名を携えて身延の地に参りました。 その時、この地の分け入って見事な松の木を見つけた望尾孫右衛門は、その由来を知りこの地に出家しました。そしてその老木の松を切り、その上にお堂を建てて宗祖の尊像を祭り、亡き母と主君・同士の戒名を納めて、41歳から78歳までの38年間、追善供養を営みました。 これが松樹庵の始まりです。