雉子神社の基本情報
詳細情報
御由緒
当社鎮座の起源は悠久な昔で御祭神日本武尊は景行天皇四十年、天手力雄命は天智天皇六年、大山祇命は花園天皇御即位の冬、延慶元年始めて神禮ありと社傅にあります。 御社号は古くは荏原宮と云い、(明治初年に神社後方の丘から出た古石に「荏原宮也」と彫刻されて居り、この石は現在社蔵しています。)文明年中には大鳥明神、山神の社とも称し、近郷村民の崇敬を集めて居りましたが、慶長慶長年間に徳川第三代将軍家光公がこの地に鷹狩りに来られた時、一羽の白雉がこの社地に飛び入ったのを追って社前に詣でられ、まことに奇瑞であると、「以後雉子宮と称すべし」とのお言葉があってから、神威愈々赫々として江戸社寺名所にその名を連ね、明治維新に雉子神社と改称して現在に及んでいます。(御社紋の葵はこの由来によってついていますが、正徳年中に江戸大奥から御奉納になった御神像奉蔵の厨子の御帳にも葵の紋が縫いとりされて居ります。) 当社は荏原郡上大崎村、下大崎村、谷山村、永峯町、六軒茶屋町、現在の東五反田一、二、三、四、五丁目、上大崎一、二、三、四丁目、西五反田一、二、三丁目一圓の鎮守で、江戸時代には江戸近郊大崎の地に諸大名が寓居、下屋敷、別邸を構えるものが多く、松平日向守信之郷が社号額(戦災により焼失)を奉献されるなど其の崇敬奉賛によって御神徳は弥が上に発揚されました。 神域は昔から現在の処で、明治初年までは神社の北東側は丘をなし、老松が天に聳え、翠の篠笹などが生い繁り、いかにも神寂びた霊域でありました。その丘を戸隠山と称していましたが、これは此処に天手力雄命をお祀りした社殿があった為めで、何時の頃か御本社に合祀したその社跡を残したものでもあります。又当社の西南方は廣々とひらけて、青田がつづき、池が散在し、芦や萩が生い茂り、その間を中原街道が通っていました。又境内は紅楓が多く、文人墨客が杖をひき、参詣されるものが多かったのであります。 樹々がうっそうと繁る境内は清々しく、雉の声も神寂びて聞かれた神の森も時代の推移と共に、田園大崎の村々も都市化し、社前の中原街道(現在国道放射一号線)は明治三十八年、昭和五年、昭和四十年と三度道路の改修擴幅が行われ、境内は次第に狭隘となり、昔の面影を失いましたが神苑の整頓、神将東郷平八郎元帥筆の社号額をかかげる石造大鳥居の建立、大東亜戦争に戦災を受けた社殿の復興、神楽殿社務所其他の新築等氏子崇敬者諸氏の奉賛によって愈々神威の尊厳風致の森厳を加えました。 明治維新までは白雉山宝塔寺が別当職でありましたが、明治五年十一月村社に定められ、明治三十九年神饌幣帛供進社に指定され、明治四十三年十月三日に上大崎村に鎮座した無格社三島神社を合祀し、昭和十年東京都公費供進社となり、戦後宗教法人として現在に及んでいます。