真養寺の基本情報
詳細情報
歴史
歴史[編集] この節の加筆が望まれています。 寛永2年(1625年)、台東区(下谷上野町[1])に廣布山真養寺が創建[1][2]。開山は真行院日暁[1][3]。 万治2年(1659年)、現在地に運千山自性院が創建。横浜の吉田新田を開拓した吉田勘兵衛らの寄進による[2]。開山は自性院日身[1][3]。 元禄2年(1689年)、両寺を合併し運千山真養寺と改める。真養寺5世住持・速成院日圓が日身の後住となった[3]。 明治44年(1911年)、市区改正により境内が道路用地になったため墓地の移転、堂宇の改築を行う[4]。これにより境内が分断され、日光街道を挟んで墓地が位置することとなる。 ^ ...Wikipediaで続きを読む
御由緒
真養寺は、運千山自性寺と廣布山真養寺が合併したお寺です。寛永2年(1625年)下谷上野町の廣布山真養寺が真行院日暁により創建。運千山自性寺は、萬冶2年(1659)自性院日身が開基となり創建。元禄2年(1689)に両寺が合併。明治40年の日光街道拡張により境内が分断されたため、墓地は日光街道の対面にあります。
引用元情報
「真養寺」『ウィキペディア日本語版』。この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E7%9C%9F%E9%A4%8A%E5%AF%BA&oldid=86141936
概要
真養寺(しんようじ)は、東京都荒川区南千住5丁目44-4にある日蓮宗の寺院。山号は運千山。旧本山は身延久遠寺、通師法縁。 万治2年(1659年)、現在の地に運千山自性院として創建される。この時、横浜の吉田新田開拓で知られる豪商・吉田勘兵衞(法名・運千院常清日凉)が寺地の寄付や鬼子母神堂・書院・庫裡の建立を行い、安藤伊賀守(重元、安藤重長の弟)が本堂を建て、山本氏が稲荷堂・山門を建立した。その後、江戸下谷にあった廣布山真養寺と合併、運千山真養寺と号した。 かつてここには日蓮宗の檀林が存在した。寛文11年(1671年)に建立された吉田勘兵衞(1611年 - 1686年)の先祖供養塔がある他、寺に隣接する墓地の北端には吉田勘兵衞の長男・吉太郎良春(秋性院良意日覚)を始祖とする吉田南家の墓が数基残る。