報恩寺の基本情報
詳細情報
御由緒
勧請開山 栄西 元久元年(1204) 木曽義仲の子、清水冠者義高が落ち延びて佐野家に仕え、名を佐野(岩崎)越前守義基と改め、 父祖の霊を弔う為に寺を建て、栄西を招請して開山とし、如法寺と称したといわれています。 21世三伯玄伊和尚の代に、妙光山報恩寺と改めました。 住職は代々鎌倉建長寺の隠居が務めていたといわれており、格式のある寺でした。 天正19年(1591)に天徳寺了伯が、母(赤見丹波守義政の娘)の菩提を弔うため自ら大願主と なって中興しました。この時の住職が福源山古溪籐和尚であり、徳川幕府から19石7斗の朱印地を いただいており、末寺8ヵ寺を持つ大きな寺院でありました。 寛政年間(1789~1801)までは、広い境内に堂塔が林立していたといわれますが、その後 寛政・嘉永年間2度の火災に遭って焼失し、その後再建された桃山式建築の本堂も 平成6年に不慮の火災で焼失しています。現在の本堂は平成10年に再建されたものです。