鶏足寺の基本情報
詳細情報
行き方
JR両毛線小俣駅から徒歩30分 東武伊勢崎線足利市駅から自動車で25分 北関東道太田桐生ICから15分
御朱印
あり本尊釈迦如来、鶏足寺不動尊と足利三十三観音の3
文化財
太刀 銘力王 国重文 鶏足寺印(銅印)国重文 梵鐘 国重文 ほか
御由緒
その昔、周囲の山々が突然地鳴りを起こして揺れ動き、異様な音を出しはじめました。しばしの後、他の山は静まりかえり、一つの山だけがいつまでも鳴り続けます。山が音を出し始めて七日目、山は急激に大きく揺れ、そこから一尊の石仏が生まれました。土地に暮らす人々は皆、その山を「鳴山」と呼んで、崇めておりました。 数百年後の大同四年(809年)、平安時代の初期に「鳴山」は歴史の表舞台に現れます。 奈良東大寺の定恵(じょうえ)上人が、「鳴山」より生まれたこの石仏を山の麓に移し、釈迦如来をお祀りして「世尊寺一乗坊」というお寺を建てました。 仁寿元年(851年)、比叡山の円仁上人(慈覚大師)によって、寺の山号は「仏手山」、院号は「金剛王院」と定められました。 それから数百年後。勢力を拡大していた平将門が坂東全域を巻き込んだ大規模な反乱を起こし、朝廷に反旗を翻しました。 朱雀天皇の命を受け、下野の押領使・藤原秀郷は、兵三千騎を率いてその討伐に向かいました。しかし、当時、隆盛を誇った将門の軍勢は強大で、秀郷の討伐軍は苦境に立たされます。 秀郷の乞いを受けた世尊寺の常裕法印(定宥とも)は、勅願によって将門調伏の法を修する事になりました。 五大尊を祀り、その前に護摩壇を築き、中央不動明王壇には、土でつくった将門の首を供え、百人の僧を従えて十七日間、常裕法印(定宥とも)は昼夜問わず、修法を続けました。 満願の日、さすがに疲れ果てた法印が眠気に襲われうとうとしていると、三本足のにわとりが、血にまみれた将門の首を踏まえて、高らかにときの声をあげる夢を見ました。 はっとわれにかえった法印が壇上を見ると、土首の三カ所に三角ににわとりの足跡がついています。法印は「調伏は成功した」と、なおも一心に修法を続けました。 すると今度は七・八歳の童子がどこからともなく現れて「今、秀郷が将門を討取った」と告げたかと思うと、たちまちその姿を消して見えなくなりました。 お告げの通り、そのとき将門は討取られたのでした。 やがて秀郷は将門の首級を世尊寺に持ち帰り、戦勝のお礼参りをした後、調伏に用いた土首をそろえて、京都の朝廷に報告しました。 この霊験により、世尊寺は「鶏足寺」と改められ、勅願・宣旨をはじめ、五大明王像・両界まんだらなどが朝廷から下賜されました。
体験
写経・写仏祈祷おみくじ絵馬御朱印お守り重要文化財花の名所札所・七福神巡り除夜の鐘伝説
鶏足寺へのアクセス
行き方
JR両毛線小俣駅から徒歩30分 東武伊勢崎線足利市駅から自動車で25分 北関東道太田桐生ICから15分