奥津嶋神社の基本情報
詳細情報
御由緒
社傳に曰く、此の島は古くより神の島として航行の船舶が安全を祈願した。 『紫式部家集』に「おいつしま守りの神々いますらむ波もさわがぬわらわえの浦」とあり、元明天皇和銅五年淡海公藤原不比等が勅許を得て社殿を創祀す。『延喜式神名帳』に蒲生郡十一座の内、「奥津嶋神社 明神大」とあり。 本社は筑前宗像神社の分神を遷されたもので鳥居の額に沖津嶋神社とある。神社の社標は、咢堂翁尾崎行雄氏の揮毫に?る。 鎌倉以来徳川まで武将は此の島を湖上航行の要所として禁制を布令し本社に武運を祈願した。島民の祖先は平安時代、保元平治の乱により平家の勢力に押されて坂本堅田に駐屯して居た源氏の一族の湖上を北陸に逃げ軍船一隻が此の島に難破し、自来其の乗組武士が此の島に住み着き、世にも珍しい源氏の落武者部落を造った。神社の氏子の中心をなすしのは此の住民である。 明治三十六年4月28日、明治天皇、京都大宮御所行幸の際、日野西侍従を差遣せられ、鰉漁業大地曳網の實况を御視察せしめ給ひ侍従は島に上陸して当社に参拝せられた。 大正昭和二度の御大典には大嘗祭の御饌として鰉を加えられ、此の島に御下命になり之れが奉納に際しては当拝殿き於て潔斎の上謹製上納した。 惟ふに、当社は琵琶湖を守る神として崇敬せられ世の進むにつれて湖こ水が京阪神の水源地として重要視される時、昔より琵琶湖を守護する唯一つの神社として水の恩恵の如何に深きかを敬示せられるを知り、一般の崇敬も一層深かるべく、神明の加護も著しきことを信ずるものであります。