女体神社の基本情報
詳細情報
御由緒
当地は新川用水左岸に位置し、かって渡船場があったことから船越の名が付けられる。古くから低湿地で水害の頻発地帯であり、水害予備船・耕作船が必要不可欠とされ、いったん大水が出ると氏子は村の中でも比較的土地の高い上台と呼ばれる当社境内に避難したという。 当社は村の開発とともに創建されたといわれ、『風土記稿』には「村民善衛門が先祖、榎本又作と云いしもの開発すと云」とある。 更に口碑によれば「開発当時の村人らが、今となってはその社名は忘れ去られているが九州の地から分霊を受け祀ったものである」という。 本殿天井部には「元禄十六癸未年三月廿三日奉建立如體権現見國ヶ長久處」の墨書があり、勧請もこの時代かと思われる。 江戸期は別当を女体寺が務め「女体権現」と称した。神仏分離に伴い社号を「女体神社」と改称した。 (「埼玉の神社 埼玉県神社庁」より)