川越氷川神社の基本情報
詳細情報
行き方
JR川越駅より東武バスにて約10分、「川越氷川神社」下車すぐ
御朱印
あり右上の参拝の文字の間には『雲菱印』が押されてい
歴史
歴史[編集] 541年(欽明天皇2年) 入間川で夜な夜な光るものがあり、これを氷川神の霊光だと捉え、当地に氷川神社を勧請したと伝えられる。 1457年(長禄元年) 河越城を築いた太田道灌は当社へ詣で、和歌を残している(「老いらくの 身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで 残る白雪」)。 川越藩歴代藩主の崇敬を受け、酒井忠勝、堀田正盛、松平斉典が社殿造営を行った。 旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社である。 1948年(昭和23年) 境内より祭祀用の石剣が発掘され、当地では5世紀を中心とする古墳時代に集落が形成され、祭祀が行われていたことが判明した[1]。 2003年(平成15年) ...Wikipediaで続きを読む
御祭神
《主》素盞嗚尊,奇稲田姫命,大己貴命,脚摩乳命,手摩乳命
御由緒
古墳時代の欽明天皇二年九月十五日鎮座。 下って室町時代の長禄元年(1457)、川越城の築城に当たった太田資長(後の道灌)は篤く当社を崇敬し、献詠和歌を残している。 また、戦国時代の天文六年(1537)の合戦の様子を描いた「川越軍記」には、その当時も人々の参詣が盛んであったことが記されている。 小田原北条氏滅亡後の天正十九年(1591)以来、関東を支配した徳川氏は、重臣を川越城主として江戸北方の守りにつかせたが、以後、幕末まで歴代城主は藩領の総鎮守として当社を尊崇し、文禄四年(1595)酒井忠利が社領を寄進したのをはじめとして、その後老中松平信綱らが社領を加増、さらに寛永五年(1628)酒井忠勝が本殿を修理した。 その後老中柳沢吉保らが社殿の造営費の寄進や修理を行うなどし、嘉永二年(1849)松平斎典の寄進により現在の本殿が竣工している。
引用元情報
「氷川神社 (川越市)」『ウィキペディア日本語版』。この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE%20(%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E5%B8%82)&oldid=86475108
概要
氷川神社(ひかわじんじゃ)は、埼玉県川越市宮下町にある神社。太田道灌以来、川越の総鎮守とされ、川越藩主ら歴代領主の篤い崇敬を受けた。 国の重要無形民俗文化財である川越まつり(川越氷川祭)は毎年10月14日に氷川神社にて斎行される「例大祭」、直後に行われる「神幸祭」「山車行事(祭礼)」から成り立っている。 氷川神社に古くから伝わる「境内の玉砂利を持ち帰り、たいせつにすると良縁に恵まれる」との言い伝えにちなみ、本殿前の白い玉砂利を巫女が麻の網に包み、神職がお祓いした「縁結び玉」が毎朝8時より20体頒布されている。 毎年、七夕を含む夏には境内に飾られた2,000個以上の江戸風鈴に、願いを書いた短冊を結ぶ祭事「縁むすび風鈴」で賑わう。 敷地内には、結婚式場の氷川会館があり、埼玉県内では唯一の神社隣接の専門結婚式場として知られる。また、結婚式で執り行われる誓いの儀式「結い紐の儀」は川越氷川神社独自の儀式として商標登録されている。 埼玉県さいたま市大宮区の氷川神社と区別するため、川越氷川神社と称されることもある。 なお、川越市内に氷川神社は当社を含めて14社ある。
行事
祭事・年中行事[編集] 良縁祈願祭:毎月八日八時八分および毎月第四土曜日八時八分に斎行(八が末広がりの縁起の良い数のため。申込多数の場合は同日八時三八分にも斎行)。詳しくはホームページを参照。 川越氷川祭:1652年(慶安4年)、川越藩主・松平信綱時代に開始された。毎年10月14日・15日に開催されていたが、1997年(平成9年)より10月第3土曜日・日曜日へ変更となった。29基もの山車を有し、毎年15基前後が隔年で曳き回される。 お衾替神事:12月28日に行われる神事。本殿内陣に紅白の絹を捧げる。 大祓:7月31日・12月31日に斎行。日頃の身の穢れを洗い流す祭事。 縁むすび風鈴:20...Wikipediaで続きを読む
川越氷川神社へのアクセス
行き方
JR川越駅より東武バスにて約10分、「川越氷川神社」下車すぐ