かささぎのもりのみや

鵲森宮


大阪府大阪市中央区森之宮中央1-14-4
縁結び・恋愛成就
学問の神様・合格祈願

鵲森宮の基本情報



名称
鵲森宮
かな
かささぎのもりのみや

詳細情報

名称
鵲森宮
かな
かささぎのもりのみや
都道府県
大阪
住所
大阪府大阪市中央区森之宮中央1-14-4
行き方
JR大阪環状線「森ノ宮駅」より西側 Osaka Metro長堀鶴見緑地線「森ノ宮駅」より7A出口南
参拝料
なし
御朱印
あり
創建時代
崇峻天皇二年(589年)
歴史
歴史[編集] 聖徳太子は物部守屋との戦いの戦勝を祈願し、勝った暁には四天王を祀ることを誓った。戦勝後の崇峻天皇2年(589年)7月、まず両親を現在地に祀って寺の鎮守とし、その森に四天王を祀る寺(元四天王寺)を創建した。四天王寺はその25年後に現在の荒陵山に移転したが、当社はそのままとされた。 『日本書紀』の推古天皇6年夏4月に、聖徳太子の命により新羅へ渡った吉士盤金(きしのいわかね)が2羽の鵲を持ち帰り、難波の杜で飼ったという記述がある。その「難波の杜」は当社の森であるとされることから「鵲の森」と呼ばれるようになり、ついには当社の社名となったと伝える(「難波の杜」は、他に生國魂神社なども...Wikipediaで続きを読む
御祭神
《主》用明天皇,穴穂部間人皇后,聖徳太子
御由緒
大阪が「押照や難波」と詠まれた今から千四百数年前、崇峻天皇二年(589年)七月、聖徳太子は物部守屋との戦いに必勝を祈願され、勝った暁には四天王像を造ることを誓われました。その戦いに勝利されて、先ず父母の用明天皇と穴穂部間人皇后を神としてお祀りなさいました。 その後、太子は四天王像を造り、この森に元四天王寺を創建なされたのです。御父用明天皇崩御の後追慕の御孝心が深かったので、太子は自ら尊像を彫刻なさって、かつ宮殿を造営なさり、そこは四方の崇敬いよいよ篤い神廟となりました。
引用元情報
「鵲森宮」『ウィキペディア日本語版』。この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E9%B5%B2%E6%A3%AE%E5%AE%AE&oldid=82430367
概要
鵲森宮(かささぎもりのみや)は、大阪府大阪市中央区にある神社。式内社で、旧社格は府社。通称を森之宮神社(もりのみやじんじゃ)といい、周辺の地名である森之宮の由来となっている。

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