神明社旧跡の基本情報
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御由緒
社傳を按ずるに嵯峨天皇の皇子源融公弘仁十三年當時の西天満伊勢町の邊りにありし孤島に勧請し給ひしもの當社の初めなり。 天照皇大神、豊受大神を祀り日本七神明の一なり。(東京芝神明宮、京都松原、同東山、加賀の金澤、信濃安曇、出羽の湯殿山神明宮) 文治年中(1185)源義経が梶原景時と逆魯のことで論ぜし時、風波鎮護の祈願を懸け願書を収む。 後醍醐天皇の嘉暦年中1326)勅願所と定められ、度々行幸ありしと云う。徳川氏に至りても大阪城代、両町奉行交代の時には必ず當宮に参拝するを例とせり。 されば往時は巍々たる大社なりしも足利氏の世に至りて兵火に罹り以後暫次衰運に傾ける折柄、天保5年(1834)七月十一日、回禄の災に罹りて社殿、神庫等悉く烏有に帰し爾後復興の機なく、かかる名社をして遂に其の独立社たるを失はしむるに至りしは憾むべし。 明治40年氏神、露天神社に合祀せらる。社は西に向かいしを以て、夕日の神明とも称せらる。 昭和三十四年十月吉日 露天神社宮司誌す 神明會有志一同