朝日神明社の基本情報
詳細情報
御祭神
《合》春日大神,菅原道真,《主》天照皇大神,倭比売命
御由緒
當朝日神明社は、朝日・日中・夕日の浪速三神明の一つとして有名であった朝日宮(東区神崎町)と皇太神社(此花区川岸町)を合祀したものである。 朝日宮(逆櫓社)は朱雀天皇の天慶年間(940年頃)に平貞盛の創建するところであって「承平・天慶の乱」の後、貞盛の戦勝を叡感された朱雀帝は、当社の御神徳を称えられ、朝日宮という神號を賜ったという。 當社はまさに勅願の故もあって豊臣秀吉の崇敬も厚く、年々米百俵を寄進された。又、元和元年(1615)の大坂夏の陣に際し、真田幸村が当社に金色の采配を、奉納して出陣したという。 尚、源頼朝が平家追討の途次朝日宮に戦勝の祈願をされた。「一の谷」の合戦後、梶原景時と史上有名な「逆櫓の論」があったが、義経は、當社に祈願をこめているので戦勝疑いなしと景時の論を退け平家を西海に討滅した。此時より当社を一名逆櫓社ともいわれるようになったのである。 皇太神宮は古くより川岸町に在った。この川岸町はかつて南新田といわれたが伊勢神宮の御分霊を乞い受け神祠を造って新田の鎮守の社として奉斎していた。 皇太神宮は、明治四十年に朝日宮と合祀して「朝日神明社」と社號を改めた。しかし川岸町一帯は世の進むにつれ工場地として発展した為、昭和六年現在地に遷宮した。 第二次大戦中(1945)惜しくも戦災を受け當社境内はもちろん春日出一帯は焼土と化したが戦後総代・氏子・崇敬者諸民の尽力によって本殿・幣殿・拝殿・そして手水舎を復興し、現在に至っている。