四條畷神社の基本情報
詳細情報
アクセス
交通アクセス[編集] JR西日本片町線(学研都市線) 四条畷駅から徒歩15分
歴史
歴史[編集] 河内国讃良郡南野村字雁屋に「楠塚」と呼ばれる楠木正行の墓があった。 明治期になると明治政府によって南朝が正統とされ、正行の父である楠木正成が大楠公として神格化されると、その父の遺志を継いで南朝のために戦い命を落とした嫡男の正行も小楠公(しょうなんこう)と呼ばれ崇められるようになった。 それに伴い、1878年(明治11年)に楠塚は「小楠公御墓所」と改められ、規模も拡大した。 同じ頃、南野村飯盛山の山麓にある住吉平田神社の神職らが中心となり、楠木氏らを祀る神社の創建を願い出た結果、1889年(明治22年)12月16日に神社創立と別格官幣社四條畷神社の社号の宣下が勅許され[1]、...Wikipediaで続きを読む
御祭神
《主》楠正行,《配》楠正時,楠正家,楠正家子息,和田賢秀,和田正朝,和田紀六左衛門,和田紀六左衛門子息,和田紀六左衛門子息,大塚惟久,畠山与三職俊,畠山六郎,野田四郎,野田四郎子息,野田四郎子息,金岸(某),金岸(某)弟,関住良円,関住良円子息,三輪西阿,三輪西阿子息,河辺石掬丸,誉田(某),阿間了願,青屋刑部
御由緒
楠正行は楠正成の嫡男であり正成公の大楠公に対して小楠公と申し上げる卿は延元元年(1336)湊川へ出陣をせられる父君と櫻井の駅にて決別されたが時に御年十一歳爾来母君に考養を尽くして臥薪嘗胆読書練武に励み報恩の至情を捧げた正平二年(1347)12月後村上天皇に拝謁国難に殉せん事を誓い如意輪堂の扉に鏃をもって決死の和歌を遺された。 正行卿一族は寡兵よくこれを迎え撃ち獅子奮迅せられたが満身に創を受け遂に殉節せられた時に御年二十二歳の青年であったこの正義に燃えたる小楠公の事績と吉野朝史の一齣は四條畷に永く留められ万古に変えぬ飯盛山は青少年の徳義昴揚を叫び老松は史蹟を語っている。
引用元情報
「四條畷神社」『ウィキペディア日本語版』。この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E5%9B%9B%E6%A2%9D%E7%95%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=84343842
概要
四條畷神社(しじょうなわてじんじゃ)は、大阪府四條畷市にある神社。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。 南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神としている。父の楠木正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して、嫡男の楠木正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれるが、地元四條畷市民や近接地に住む大東市民の間で単に「楠公さん」と言えば正行や当社を指す場合が多い。1975年(昭和50年)には「楠公」という町名まで誕生し、他にも周辺に楠公と付く地名が複数誕生している。 境内やその周辺には桜が多く植えられており、春は多くの花見客でにぎわう。
札所
神仏霊場巡拝の道第61番(大阪第20番) なにわ七幸めぐり
四條畷神社へのアクセス
アクセス
交通アクセス[編集] JR西日本片町線(学研都市線) 四条畷駅から徒歩15分