いわとわけじんじゃ

石門別神社


岡山県岡山市大供表町3-31
参拝自由
縁結び・恋愛成就
学問の神様・合格祈願

石門別神社の基本情報



名称
石門別神社
かな
いわとわけじんじゃ

詳細情報

名称
石門別神社
かな
いわとわけじんじゃ
都道府県
岡山
住所
岡山県岡山市大供表町3-31
行き方
情報募集中
参拝時間
約10分
公開時間
参拝自由
参拝料
なし
お手洗い
なし
御朱印
あり
創建時代
不詳
本殿
一間社流造
御祭神
《主》天津石門別命
御由緒
当社は御野郡伊福郷の大安寺山に祀られており、延喜6年(906)正月に現在の場所へ遷座したと伝えられている。 『備前国式内書考録』(明治初年)が記す様に、この神社は、はやく廃絶してその所在場所は久しく不明であったと思われる。そして江戸中期頃になって大供村の戸隠神社が式内石門別神社に比定されることになったようである。 例えば、元文4年(1739)に完成した『備陽国誌』には『戸隠宮 大供村。所祭 手力雄命。延喜式に御野郡石門別神社と云う当社ならんかと云へり』と見える。 しかし、その後寛政年間に岡山藩士大澤惟貞によって編纂された『吉備温故秘録』では、式内石門別神社は大安寺村の項に記されてをり、また明治3年の『神社明細帳』でもこの神社は未だ『戸隱宮』と記されていることなどを考えると、江戸時代中期頃から式内石門別神社に比定されながらも明治初年まではなお決定的なものとはならなかった様子がうかがわれる。『特選神社名牒』にいくつかの説を並記しながら「大供村戸隠宮を備陽国誌の神明帳に御野郡石門神社とあるは当社ならんかとみえ貞享元年神社書上帳に戸隠宮とあり社司の記録に備前国御野郡大供村鎮座戸隠宮奉祭手力雄命也とあるもの證とするに足れり故今之に従う」としている。なおこの神社に神宮寺が置かれたことを『御國中神社略記』が記してをり(昭和13年『岡山市史』第5巻)、『吉備温故秘録』は廃寺の項に「日蓮宗安立山大福寺 大供村・本寺蓮昌寺」と記している。大福寺は岡山藩の寛文期の社寺整理の際に廃寺とされたもので、『撮要録』(文政6年)はこの時廃寺となった寺についての寶永4年(1707)の調査資料をあげている。それには「住持還俗改名清左衛門後有罪追放、寺株田地賜、清左衛門追放後賜磨屋町光珍寺、理斎大供村へ引越孫權六續之、本尊なし」とある。 社領について『備前國式内書上録』(明治初年)は寛保年間の社伝(現在その行方は不明)に記された古老の申し伝へとして「當社往古封戸神田許多有之所ニ亂世之比度々減シ、浮田泉茘直家、同秀家之御代、天正文禄の比は社領纔25石残れり、是亦慶長之始召放れける由」と記すが、確認できない。江戸時代の地誌類、明治初年の諸資料にはこの神社の社領は記載されていない。 『荘園資料』などによると、石門別神社の鎮座する大供付近は藤原氏の氏長者に属する殿下渡領となった鹿田荘の荘園に含まれていたと考えられている。[岡山県神社庁のHPより抜粋]
体験
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