針観音堂の基本情報
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御由緒
このお寺に関しては複数の縁起が残されています。以後、共通する部分をまとめます。 平安時代頃、針村に信心深い男が住んでいた。男は、仏の慈悲が大勢の人に及ぶよう全国各地の霊場巡りをしたという。紀伊国の那智山に登ったとき、彼は一人の僧と道連れになったという。連れだって美濃国谷汲にたどりついた時、男が故郷へ帰ることを告げると、その旅僧は別れ際に「あなたの大きな願望は必ず成就します。ただ時期を待ちなさい」と男に伝えたという。 それから男は三十三年間、男は毎年霊場を巡り、大悲供養のしるしとして近くの熊川から石を持ち帰り、家のそばに立てたので、その数は三十三個に及んだ。しかしついに高齢となり、霊場巡りができなくなったという。 男が嘆き暮らしていたある日、以前道連れとなった旅の僧が立派な姿で男の住まいを訪ねてきた。男が驚いて、何者か尋ねると、僧は自分が空海であることを明かし、男と別れた後に唐に渡り真言密教の教えを広めたこと、男の大悲の成就を助けることを告げた。そして、一つの石を拾って来て、男の供養石三十三個と並べ祈念すると不思議なことに弘法大師の石は阿弥陀如来、三十三体の石は観音様の立像に変貌したという。 男はそれからすぐに一堂を建てて三十四体の尊像を安置したところ、多くの人々が参詣に来るようになり、霊地として敬われるようになったという。ところが、その後の大火や洪水により、お堂が荒廃し、尊像の行方も分からなくなった。 その後、七百年近く建った承応年間(1652-1655)、蓮智房という京都の僧が村はずれで野宿をした際に、夢に石仏観音が出て、地中から掘り出すように促したという。目が覚めて驚いて左右を見たところ、古い井戸の穴の中が光輝いて見えた。そこで村人と掘り返したところ、石仏三十四体が見つかった。まさしく弘法大師作の西国三十三カ所の観世音菩薩と阿弥陀仏であろうと小堂を作り安置したという。 蓮智房はこのことを後世の人々に知らせようと、この縁起を残した。またこの三十四体を秘仏として三十三年に一度の御開帳をすることに決めた。