少彦名神社の基本情報
詳細情報
御由緒
今から540年前に建てられたと伝えられている。当時の神田は沼地で、そこに薬師が祭られており、「神田の薬師様」と呼ばれ、親しまれていたらしい。明治二年、神仏分離で「少彦名神社」と改め、今にいたっている。 文禄元年(1592)神田村の鎮守と定まり、村民はこれを医王の神として崇敬した。慶長年間(1596~1614)南魚沼郡の坂田城主 堀丹後守が祈願を立て、その後、堀氏が長岡移封の際、社守に扶持と境内地を下附された。 次いで、牧野家に至っても崇敬篤く、明治維新に至るまで、社守奉仕を任され五人扶持(一日に玄米4~5合の割合で毎月支給)を給し、又、神鏡を奉納された事もある。 戊辰戦争で社殿は全焼した為、旧記文書及び宝物類は全部失われたが、幸わい御神体のみ無事であった。 明治維新以前の当神社は薬師と称せられ、初代諸里正勝氏は真言宗を修めて医王山竜王院永正と改称して奉仕し,子孫代々受け継がれてきたが、明治二年神仏分離の際、薬師を少彦名神社と改め、同五年に村社とする旨、柏崎県から通達があったが、翌六年町村制の改革に伴ない社格が廃止された。 戊辰役で全焼した為、仮宮であった社殿は、明治11年明治天皇が北越行幸の際、長岡表町学校脇に御行在所(現在の明治公園内)を設け寝所とされた建物を遷して、当神社の拝殿に充て、明治天皇の御遺徳を偲び、又、神社の神徳と相俟って地域人々の尊崇を受け、{神田の薬師さま}の名で市民に親しまれている。 大正8年に再び村社に加えられ、同時に幣帛供進神社に指定された。