赤穂神社の基本情報
詳細情報
御由緒
飛鳥時代よりの藤原氏の氏神であり、平城遷都に伴いこの地に遷座したと伝わる。熟稲を神籬に懸け、「赤丹穂に聞食し給へ」と申したことより、赤穂の社と呼ばれるようになったという。 もとは数百坪程の社地があったといわれ、明井町(閼伽井町か)の通りに大鳥居があり、桜の名所である神領も所持していた。後年田になり、一帯が「桜田」とよばれた。 明治維新を機に荒廃し、200戸近い家々・禰宜の大半が離散し築地塀のみが虚しく残ったといい、堀辰雄らが哀惜の詩文を残したとされる。これを嘆いた地元の有志によって復興が進められ、天満宮と弁才天社を合祀して赤穂神社の左に配し、二社並存という形とした。 1930年(昭和5年)、この近所にある新薬師寺のそばの鏡神社の別社となり現在に至る。