水谷神社の基本情報
詳細情報
御由緒
神武天皇の長兄、五瀬命(いつせのみこと)とそのお妃様を奉斎する古社。 神武天皇(その頃はカンヤマトイワレビコノミコト)がたが高千穂の宮におわすとき、長兄の五瀬命が最初に妃をめとられその新居の地を五ヶ瀬川流域に求められた。その途上、この地をいたくお気に召され、新婚の宮居を築き神武ご東征までの数年間をここで過ごされたと伝える。また吉野の地名は命の命名によるもの。五ヶ瀬川の河川名は命にちなんで「五瀬川(いつせがわ)」と称していたものが後年、「ごかせがわ」と転化したという。 その旧跡を村人が慕い「五瀬宮(いつせのみや)」と尊称して神社を造営。中世に領主の土持氏が同村に別邸を設け先祖の供養寺(光福寺)を建立した時、社殿を新築し「御稜威家(みいづや)神社」の社号を奉った。御稜威とは神様の尊さやお力を表す言葉であり、そのみいづやが「みずや」となったと言う。 またこの吉野をはじめ、近隣の三輪・高野(たかの)などの地名は大和の国へ移られた神武天皇ご一行が、故郷を偲んでかの地に付けられた地名じゃ、と古老は自慢したものである。 明治4年の神社改正により、吉野村中の2社(水谷神社・坂本稲荷神社)は隣村の天下(あもり)大明神に合社し吉野神社と改称。ところが特異な現象が続いたため、神威を恐れた村人がご神体を奪還して元のお宮にお納めし、現在に至る。水谷神社の境内は近年まで吉野公民館があり、久しく地域の中心地であった。 境内には上記の由来を記した顕彰碑が(昭和17年・延岡聖蹟顕彰会)建立されている。 祭典は7月5日(夏祭)・12月5日(冬祭)のほか旧暦9月11日の「お日待ち祭」がある。夕刻より大かがり火を焚き、神楽を奏し、夜を徹して歓談して翌日の朝日を拝する神事が伝承されている。大和へ旅立たれた神武天皇ご一行(日の御子)を待ち慕う行事と言い伝えられる。