与太夫神社の基本情報
詳細情報
御祭神
一の宮➡与太夫京五郎様・ 二の宮➡西洞院実盛卿・ 三の宮➡御家来衆 ほか水神様・山神様・龍神様・尺間様
御由緒
今から660年ほど前の南北朝時代の武将・与太夫京五郎様をはじめとする武将方を祀る神社。 後醍醐天皇から足利尊氏討伐の命を受けた公家・西洞院実盛卿は豊前の侍・与太夫様を大将として家臣団を伴い、豊後から日向を経て肥後の菊池氏に密書を奉じて下向。その道中、待ち伏せの敵兵と対峙し全員が討ち死。その旧跡に3基の塚が築かれたのが当社の始まりである。 伊福形の村落より2里ほど離れた深山の墳墓は顧みられることもなく年を経ていたが、幕末頃より奇瑞が現れるようになり、特に大正後期から昭和初年には病気治しの神としてにわかに一大ブームを巻き起こす。かつては庵を結んで供養していた時代もあったが、この頃から「与太夫神社」として奉斎。3基の墓所を一、二、三の宮として社殿を造営した。 参拝者は九州はもとより関西・四国方面よりも群集し、静かな山中に門前町が出現。旅籠・飯屋・風呂屋・床屋など10軒余りが繁盛し、お賽銭は当時の伊形村の収益となった。この「はやり神」現象は数年で収まったが、特異な現象として当時の宮崎県が編纂した「宮崎県史跡調査」に詳細が記載されている程である。 戦後久しく忘却されていたが、昭和50年代から再び病気治しのおかげが出現。社殿や参集所が新築され、取次ぎをなす霊能者が居住して祭祀を奉仕。毎月旧暦の23日をお祭り日として前夜から「お通夜(おこもり)」をなす風習も復活した。 近年、治病だけでなく諸願を叶える神として一層の信仰を集めるようになり、旧暦23日の月祭りには遠近から多くの人々が参集する。崇敬者で組織する総代会の婦人部が料理を持ち寄り、お接待を行う伝統も毎月続いている。旧暦10月23日に近い日曜日に斎行される与太夫大祭には、伊福形神楽や餅まきのほか様々な神賑行事が奉納され往時を髣髴とする熱気に深山がつつまれる。