如意寺の基本情報
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御由緒
天平年間(奈良時代)、行基菩薩が当地に留錫の折、山上より火出て海に入り、海より火出て山に昇るを見て網を引かせたところ如意宝珠を得た。菩薩は伽藍を建立しこれを納め、宝珠山如来寺と号された。これが当山の開基である。本尊は菩薩一刀三礼三年と伝えられる十一面観世音菩薩である。 鎌倉時代後期、伏見天皇は当寺に深く帰依され、正四位行左馬頭藤原定成を勅使として「如意寺」墨書の勅願を下賜された。当時は寺領五百石、院家十二坊の伽藍を有し栄えたが、応永年間(室町中期)の兵火でその多くを消失した。しかし、戦国期の天文、江戸期の寛文・寛延・寛政、また明治後半に大復興事業が行われるなど、往時より参籠・参拝する者常に絶えず、萬人帰依の寺院として今日に至る。宝永六年(1710)に宝珠を、大正七年には銅尖塔(平安後期)を伽藍より出土し銅尖塔は国の重要美術品に指定されている。現在の伽藍は、参拝の便も考慮し、昭和三十八年より観音山から末寺大円寺跡であるこの飛地境内の地に順次遷従したものである。 ご本尊は霊水「閼伽井の水」と共に眼守護のご利益で知られ本尊会である「千日会(八月九日)」には花火・灯籠流し大文字焼きなど町を挙げての夏祭となる。不動堂は昭和五十八年新改築で、当地出身の名工中村淳治棟梁の手による、和・唐・天竺の三様式融合、日本唯一の珍しい重層宝形造である。堂内には弘法大師爪彫と伝えられる日切不動尊をお祀りする。 庫裡の阿弥陀如来は平安後期、恵信僧都作と伝えられる桧の一木造りの美しい座像である。仁王門の金剛力士像は鎌倉初期の木像で重文級とされる。 また、当寺は「関西花の寺二十五カ所霊場」の第七番札所であり、年間約五百種類の花木や山野草が咲く。特に、境内周辺に密生する(みつばつつじ)の自生林は四月初~中旬満開となり、一帯をピンク色に染めて見事である。 如意寺は高野山真言宗で無檀家。初詣をはじめ、厄除・安産・病気平癒・交通安全・所願成就・七五三等の〈祈祷〉)〈永代供養〉、また〈花寺巡り〉の団体参拝など、年間約十万人の参拝者が訪れる「花とご祈願の寺」である。