神谷神社の基本情報
詳細情報
文化財
本殿、神門、八幡神社本殿、鳥居(京都府登録文化財) 参考館(京都府指定文化財)
歴史
歴史[編集] 江戸時代から変わらない道筋の参道。正面に八幡神社および磐座、鳥居手前の右に神谷神社が位置する。 「神谷神社」の創建は伝承に拠れば第10代崇神天皇の時代に遡る。地方平定を命ぜられた丹波道主命が山陰道を巡察した際に、前途洋々たることを祈願して出雲国から八千矛神(大国主命)を招き祀ったのが始まりとされる[1]。当初の遷座地は久美浜町小字神谷(かんだに)の山林の中に開けた平坦地であった[1]。この古地は「神谷明神谷」と呼ばれ、この地に残る「旗指神社(はたさしじんじゃ)」は、太刀宮の旗持ちであったという[2]。神谷神社は後に現在地、久美浜町小字小谷の太刀宮に合祀したことによって場...Wikipediaで続きを読む
御由緒
神谷神社は、通称「神谷太刀宮」と称し延喜式の神名帳に記される神社である。現在の本殿は天明元年(1781)に建てられた。桁行二間入母屋造の桧皮葺の出雲地方に多い大社造りの系統をひく建物であり、彫刻も精巧なものとなっており「太刀宮造」と称され、この地方では例のない神社建築である。神門も切妻造の四脚門で格天井を張るなど意匠に優れ、境内社八幡神社本殿も小規模なこけら葺、一間社流造で孔雀の彫刻を施すなど装飾豊かな建物である。 祭神として丹波道主命、八千矛神、天神玉命、天種子命を祀る。丹波道主命は、四道将軍として丹波に派遣されたと「日本書紀」に記される。神社では丹波道主命が丹波平定の後、明神谷に出雲国より八千矛神、天神玉命、天種子命の三座の神々を迎え出雲の人々の歓心を得、社殿を創建したのに始まると伝えられる。 丹波道主命は、丹波河上摩須郎女をめとり、五子を授かる。その娘の、日葉酢媛は第十一代垂仁天皇の皇后となる。神谷神社は、旧郷社であり、社蔵文書によると文禄五年(1596)城主・松井康之から用地寄進を受けていることがわかる。 鳥居は、石造明神鳥居で、宝永四年(1707)に建てられたものである。八幡山の山麓に巨岩を擁し、自然崇敬の「磐座」の様相を呈し、境内地一帯は、京都府文化財環境保全地区に指定されている。 境内の参考館(考古館)は、旧久美浜県庁舎玄関棟の建物の一部で、明治初期の武家屋敷の流れをひく役所建築として貴重である。
引用元情報
「神谷太刀宮神社」『ウィキペディア日本語版』。この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E5%A4%AA%E5%88%80%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=86720014
概要
神谷太刀宮神社(かみたにたちのみやじんじゃ)は、京都府京丹後市久美浜町の南西部にある神社。 もともとは別の由来をもつ神谷神社と太刀宮神社が合祀された2社一体の神社で、江戸時代までは「太刀宮(たちのみや)」と呼ばれ、明治期には久美浜地域の郷社として崇敬を集めた。久美浜一区の氏神であり、21世紀においても「太刀宮」の通称で親しまれる。秋の例祭は丹後地方を代表する祭礼のひとつに数えられる。 神谷神社は、熊野郡に11座あった式内社のひとつ「神谷神社(かみたにのじんじゃ)」とされるが、この式内社が神谷太刀宮神社として太刀宮をも含むのか、神谷神社のみを対象としたのかは定かではない。太刀宮は、全国で唯一丹波道主命を主祭神とし、御神体として祀る丹波道主命の佩刀「国見の剣(くにみのつるぎ)」は諸説ある「久美浜」の地名由来のひとつである。
体験
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