縁城寺の基本情報
詳細情報
文化財
木造千手観音立像(国重要文化財) 金銅装笈(京都府指定美術品)
御由緒
当山縁起は、「養老元(717)年、印度の高僧善無畏三蔵来朝し、紫雲の霊瑞を尋ねて当山に来たり。梵天帝釈の二童子より千手観音尊像を授かり、その由来を記して尊像の天衣に結びて帰唐され給う」と伝える。 その後、光仁天皇の叡聞に達し、宝亀二(771)年、勅願し堂宇を建立し、「千手院」と名付け給う。更に、桓武天皇は、延暦十四(795)年「縁城寺」の寺号勅願を給う。 弘法大師は、若き日、当寺に三蔵の「天衣記」あるを聞き、ご来錫、「発信貴山」と山号額を自ら書き残し給う。 その後一時衰微したが、一条天皇の帰依篤く勅願寺として永延二(988)年再興された。 爾来、仁王門より金堂までの三百米余には七ケ院二十五坊谷に満ち香煙絶えることなく、奥丹後随一の信仰祈願の名刹として賑わいを見せた。三度諸堂灰燼に帰するほどの大火に遭いながらも、そのつど再興をみた。 しかし、明治四(1871)年、廃藩置県にともなう寺領荘園の召し上がりと、廃仏毀釈の風潮により漸次衰運に向かった。 昭和二(1927)年、丹後震災で勅使門、仁王門、庫裡等の全壊、昭和三十八(1963)年豪雪による多宝塔上層部の倒壊を経て現在に至り、従時の伽藍再興を望まれる情況にある。