法蔵禅寺の基本情報
詳細情報
御由緒
この地は、江戸中期の陶工・尾形乾山の鳴滝窯跡である。 乾山は寛文三年(1663)に大呉服商雁金屋尾形宗謙の三男に生まれ、次男は画家の尾形光琳である。父の死後、遺産を譲られた乾山は御室で隠棲生活を始め、黄檗禅の独照性円に師事し、またこの時代に御室焼陶工の野々村仁清と出会い、陶芸を学んだ。 その後、二條家の山屋敷があったこの地を二條綱平から譲り受け、仁清から陶法を伝授された乾山は、元禄十二年(1699)に窯を築いた。場所が王城の西北、すなわち乾の方角に当たることから、窯名を「乾山」と名付け、また自らの号としても用いた。この地では兄光琳との合作を世に出し、製作は十三年に及んだが、正徳二年(1712)には二条丁子屋町(中京区)に移り、東山の諸窯に依頼して焼物商売を始めた。その後、江戸に下り、寛保三年(1743)に江戸の入谷で八十一年の生涯を閉じた。 乾山は器の意匠に工夫を凝らし、絵画や書の世界を初めて焼物の世界に導入した陶工である。意匠と器の調和による装飾性豊かな乾山焼は後の京焼に大きな影響を与えた。 その後、享保十六年(1731)に百拙元養が、近衛家煕(予楽院)の出資を得て、海雲山法蔵寺と号する黄檗宗(禅宗)の寺とした。