福長神社の基本情報
詳細情報
行き方
京都市バス「烏丸今出川」下車、徒歩5分 地下鉄「今出川」下車、徒歩2分
本殿
拝殿は桟瓦葺・平入切妻造の正面に妻入切妻造の 庇が付いたもの。本殿は銅板葺の一間社流見世棚造
歴史
歴史[編集] 概史[編集] 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、宮中の「神祇官西院坐御巫等祭神」のうちで生井神・福井神・綱長井神・波比祇神・阿須波神について「座摩巫祭神五座 並大 月次新嘗」と記されており、5柱は式内大社に列するとともに月次祭・新嘗祭において幣帛に預かっていた[1]。これら5柱は、貞観元年(859年)にも無位から従四位上に神階の昇叙を受けている[2]。 社伝では、天正年間(1573年-1592年)の豊臣秀吉による聚楽第造営または廃城の際に現在地に遷座したという[3]。ただし、天正2年(1574年)に織田信長が上杉謙信に贈ったとされる「洛中洛外図屏風」では、すで...Wikipediaで続きを読む
御由緒
本社は福井神、綱長井神、稲荷神を祭神として祀る。社名は、福井、綱長井の二神を合祀することによるが、稲荷神も合祀することから「福長稲荷」とも呼ばれた。 福井神と綱長井神は、平安京大内裏内の神祇官西院(現在の大宮竹屋通辺)に祀られていた延喜式内社、宮中神の座摩巫祭神五座(生井神、福井神、綱長井神、波比伎神、阿須波神)のうちの二座である。 現在の地に遷された経緯については、社伝によると天正年間、豊臣秀吉の聚楽第造営、あるいは廃城の際と伝えられるが、天正二年(一五七四)に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられる洛中外図屏風(狩野永徳筆)には、すでに現在地に福長神社が描かれている。 天明の大火(一七八八)で焼失した後は小さな祠となったが、明治時代以降も水の神(屋敷内の井戸や泉の神)として地元の人々から篤く信仰されている。
引用元情報
「福長神社」『ウィキペディア日本語版』。この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E7%A6%8F%E9%95%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=65461986
概要
福長神社(ふくながじんじゃ)は、京都府京都市上京区福長町にある神社。式内社(大社2座)。別称として「福長稲荷」とも。
福長神社へのアクセス
行き方
京都市バス「烏丸今出川」下車、徒歩5分 地下鉄「今出川」下車、徒歩2分