志賀理和氣神社の基本情報
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歴史
目次 1 歴史 1.1 創建 1.2 概史 1.3 神階 歴史[編集] 創建[編集] 社伝では、延暦23年(804年)に坂上田村麻呂が、東北開拓守護神として経津主命(香取神)・武甕槌命(鹿島神)を勧請したことに始まるという[1]。 9世紀初頭において、一帯では志波城造営(803年)・斯波郡(紫波郡)建置・徳丹城造営(811年)などの開拓が進んでおり、当社も蝦夷平定の報謝と一帯の鎮護のため、その時期に創建されたと見られている[2][3]。奥羽の式内社では地主神を包摂しつつ中央神を勧請して創建される例が多いが、当社がその場合にあたるかは明らかでなく、神名「志賀理和気」の由来も定...Wikipediaで続きを読む
御祭神
《合》大己貴命,少彦名命,猿田彦命,保食神,船霊命,《主》経津主命,武甕槌命
御由緒
延暦二十三年(804)坂上田村麻呂が東北開拓の守護神である香取、鹿島の二神を当地の鎮守として斯波加里の郷鳰が磯野(現在地)に勧請合祀したと伝えられている。爾来、東北六郡を領した藤原秀衡の族、樋爪氏を始め、高水寺城主斯波氏など当地を領した累代領主の厚い尊崇を受けた。 天正年間(1573-1592)南部氏がこの地を領すると殊のほか崇敬の誠を捧げ、第三十三代利視公は「御社はとまれかくまれ志賀理和気我が十郡の国のみをさき」の和歌を献じ、社殿を造営するなど深く敬仰した。 さらには近江商人、井筒屋など豪商も霊験あらたかな神として篤く信仰した。境内に方三尺余の赤石があるところから赤石神社の通称で親しまれる日本最北の延喜式内社である。 御由緒 一、桓武天皇、延暦の昔(約一、二〇〇年前) 坂上田村麻呂が香取、鹿島の大神を 勧請奉斎し陸奥開拓の守護神として 崇拝した古社である。 二、仁寿二年、文徳天皇は当社に正五位下 の神格を下賜された。 三、延喜年間、醍醐天皇の勅命を受け全国 神社三、一三二座が延喜式神明帳に登載 された、その日本最北に位置し、古来 より朝廷の尊崇する社として重んぜられた。 四、前九年の役以降は、この地方を領地せ る樋瓜氏、斯波氏、南部氏を始め豪族 豪商の崇敬ことの他篤く、明治に郷社 更に大正には県社に列し現在は県神 社庁指定の一級社である。 日詰桜町地区を氏子に県内外広く崇敬 をあつめ、霊験あらたかにして、広大無辺 の神恩あまねく照り輝く大社である。
引用元情報
「志賀理和氣神社」『ウィキペディア日本語版』。この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E5%BF%97%E8%B3%80%E7%90%86%E5%92%8C%E6%B0%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=87803689
概要
志賀理和氣神社(しがりわけじんじゃ/しかりわけじんじゃ、志賀理和気神社)は、岩手県紫波郡紫波町桜町にある神社。式内社で、旧社格は県社。 別称として「赤石神社」「浮島明神」とも。式内社としては最も北に位置することで知られる。
行事
祭事[編集] どんと祭 (1月15日)[1] 節分祭 (2月3日) 祈年祭並火防祭(春祭) (4月29日) 夏越大祓式 (6月30日) 人形納謝祭 (6月30日) 例大祭(秋祭) (9月第1金土日) ^ 祭事の記載は神社由緒書による。