亀田八幡宮の基本情報
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アクセス
アクセス[編集] 函館バス「宮前町」徒歩5分。
歴史
歴史[編集] 神輿殿(旧本殿)。手前右に立つのは「箱館戦争降伏式之地」記念碑。 創建年は諸説あり、松前藩の記録『福山秘府』によれば「時期不明」とあり[1]、1690年(元禄3年)の神社調では「今から100年前くらいからある」となっている[2]。一方、神社の由緒では、1390年(明徳元年)、河野加賀守森幸が氣比神宮から八幡神を奉遷したと伝わる[1]。なお北海道神社庁では、奉遷したのは越前国の笠原右源太としている[3]。 コシャマインの戦いの際、武田信広が祈願したところ、七重浜に生えていた柏が軍勢に見えたため、アイヌが降伏したとの伝説がある[4]。その後、1594年(文禄3年)に松前藩の...Wikipediaで続きを読む
御由緒
明徳元年越前国敦賀郡気比神宮より、八幡大神の御分霊を同国笠原右源太が当地に奉遷。その後河野加賀守森幸が、右源太の孫左衛門をして本殿造営をしたが、松前藩祖信広との戦乱の為祭祀営繕不能となる。蝦夷地大乱の時、松前藩4代慶広が南部大澗より渡来の智楽院(藤山家の祖先)に七飯村藤山頂上で必勝祈願をさせ大勝し、その時アイヌ勢が七重浜の柏樹草木を軍勢と見て降参したのは八幡宮の加護と、藩祖信広の大弓半弓矢を奉納、正月6日の法楽神事を仰付け、七重浜の柏樹林の伐採を禁じ、松前藩の祈願所に定めた。慶長8年10月本殿拝殿を建立(現神輿殿・文久2年8月改築)。毎年祭祀料玄米25俵、各村の役納を仰付け大祭毎に代参。明治元年蝦夷統督清水谷侍従参拝。戊辰戦争では、幕軍榎本武揚・大鳥圭介等が当宮神殿で降伏を誓約。同2年8、12月侍従東久世通禧参拝。同9年郷社。同15年有栖川宮一品幟仁親王御真筆の奉納。同41年神饌幣帛料供進神社に指定。
引用元情報
「亀田八幡宮」『ウィキペディア日本語版』。この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E4%BA%80%E7%94%B0%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE&oldid=68778735
概要
亀田八幡宮(かめだはちまんぐう)は、北海道函館市八幡町にある神社。旧社格は郷社。祭神は誉田別命。