光徳寺(成田山不動尊)の基本情報
詳細情報
御由緒
成田山光徳寺・竜宝堂の本山は、千葉県の成田山新勝寺で、新勝寺は成田不動尊と呼ばれ、平安時代初期の天慶二年(939年)僧寛朝(かんちょう、真言宗初の大僧正)が平将門の乱のときに、高雄の神護寺に祈願し、乱後一宇を建てたもので、江戸時代中期の元禄年間(1688-1704)照範が中興し本堂を建て、多くの信者を得るようになったという。 また、明治初年、中山道高崎宿本町の境屋旅館の館主後藤安五郎は、成田山新勝寺のあつい信者で、烏川~利根川を舟で半月もかけて参詣を続けていた。 明治十年(1877年)、高崎藩が廃され城跡が陸軍用地となるに及んで、城中西南隅の大河内輝貞の祈願所、威徳寺を買いうけ、当地へ移転し、明治四十年(1907年)六月、北甘楽郡一ノ宮町田島村の天台宗施無畏寺へ合併されるまで、千葉県の成田山新勝寺の末寺であった。合併後現在まで、威徳寺の内陣は光徳寺本堂東に建てられており、市指定の重要文化財となっている。 明治四十五年(1912年)埼玉県児玉郡児玉町より現在の光徳寺を現在地へ移転したという(名目のみとか)。時の住職松本宥海。移転当時、周囲は皆水田、本町二丁目から参道を開削したといわれている。(ぐんまのお寺 真言宗Ⅱより)