石都々古和気神社の基本情報
詳細情報
アクセス
交通[編集] JR東日本・水郡線磐城石川駅下車、徒歩10分(石川町役場横)。ただし、これは八幡山麓の境内入口までの時間であり、本殿まではさらに10分程度山道を歩くことになる。参道とは別に本殿横まで自動車の通れる道がある。
御朱印
あり真ん中に石都々古和気神社と書かれ、右上に陸奥國
歴史
歴史[編集] 当社は八幡山と呼ばれる山の頂上にある。創建の年代は不詳であるが、八幡山には磐境が多数あり、古代から祭祀の地とされていたことがわかる。延喜式神名帳の記述が書物における当社の初見である。 永承6年(1051年)、源有光が源義家の安倍一族追討の軍に加わって功績を挙げ、代官として石川の地を賜った。有光は康平6年(1063年)にこの地に移って名を石川有光とし、八幡山山頂の当社東側に三芦城(石川城)を築城した。以降25代528年間にわたって石川氏の居城となっていたが、豊臣秀吉により取り上げられた。治暦2年(1066年)、源氏の氏神である石清水八幡宮の分霊(八幡神・大国主命)を勧請して石...Wikipediaで続きを読む
御由緒
当社は福島県石川町の中央、通称八幡山に鎮座し、境内は三芦城(石川城)の跡地として県及び町の史跡に指定されており、古くより山岳信仰の場として山そのもの、又参道両側に点在する磐境(巨石)が信仰の対象として、土着の人々に崇敬されていたと思われます。 当社は延喜5年(905)にまとめられた「延喜式神名帳」記載の白河郡七座の一つに数えられている古社であり、また陸奥ノ国一ノ宮にも数えられる。江戸時代には「石都八幡宮」と呼ばれていたと言われており、福島県棚倉町の都都古和気神社は最初は一つだったという話もあり、当社と福島県古殿町の伊波止和気神社で近津三社にする説もある。 石都々古和氣神社の創始は地方の伝承によれば、飛鳥時代(614-669)に藤原氏の祖、大臣鎌足(藤原鎌足)が「味鋤高彦根命」を「筒子山」に祀ったのが始まりとされており、延暦年中(782~806)には福田利人が祠を営んで、「味鋤高彦根命」を祀り、康平5年(1062)に初代福田安芸守源有光(初代石川有光)が八幡山に、三芦城を築いた。築城中、当社を假に高田五里石の千勝大明神の地(当社の東400m程の近津神社)に遷座した。治暦2年(1066)9月これを旧社に還遷し、石川有光は陸奥国平定の際に源頼義が勧請した源氏の氏神である石清水八幡宮の御分霊(大国主命・誉田別命)を当社に合祀し、そのとき石川有光の末子有祐が外祖父神祇職吉田(卜部)兼親朝臣の養子となり、吉田左衛門尉(初代神官吉田家当主)と名を改め当社神官となった。(上記サイトより)
引用元情報
「石都々古和気神社」『ウィキペディア日本語版』。この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E7%9F%B3%E9%83%BD%E3%80%85%E5%8F%A4%E5%92%8C%E6%B0%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=83992765
概要
石都々古和気神社(いわつつこわけじんじゃ)は、福島県石川郡石川町にある神社。式内社で、旧社格は郷社。また、陸奥国一宮を称する。
行事
祭礼[編集] 八幡神を当社に合祀した日は旧暦9月19日であり、それ以降、当社の例祭はこの日に行われるようになった。山頂より神体を納めた神輿が氏子の手によって麓の馬場町御仮屋に下り、7日間にわたって流鏑馬などの神事が行われていた。昭和50年(1975年)に新暦の9月11日から15日まで、平成15年(2003年)より新暦の9月第2土曜日に例祭式、その前3日間を参篭と改めた。
石都々古和気神社へのアクセス
アクセス
交通[編集] JR東日本・水郡線磐城石川駅下車、徒歩10分(石川町役場横)。ただし、これは八幡山麓の境内入口までの時間であり、本殿まではさらに10分程度山道を歩くことになる。参道とは別に本殿横まで自動車の通れる道がある。