信行寺の基本情報
詳細情報
行き方
博多駅から車で30分、福岡空港から15分。 高速太宰府ICから車で15分、須恵IC(ETCのみ)より10分。 JR宇美駅から徒歩7分。 西鉄バス上宇美から徒歩5分。
公開時間
8:00〜17:00 初めての方でも気軽にご参加いただける催しをいくつか開催しております。 また、上記時間内は、基本的に境内も開放しております。 大歓迎ですので、是非お越しくださいませ。 ただ、当寺は観光寺院ではなく、ご葬儀やご法事等もございますため、催しの時以外でのご来寺には応対が行き届かない場合がございます。 大変心苦しいですが、その点、ご容赦いただけますと幸いです。
御由緒
〈信行寺開基〉 信行寺の第一世は、上杉四天王として名高い、甘粕近江守景持の子、甘粕三郎信連と伝承されています。景持は、上杉謙信の重臣として、川中島の戦いで直江兼続とともに武田軍を退けた名将と言われます。その三男である信連は、その後豊臣家に仕えました。 江戸時代初期、豊臣と徳川との争乱の中、信連は密命を帯び、家来20数名と島津家に向かう道中、黒田藩に捕えられました。釈放後、信連は京都本願寺において得度をし、第十二代門主の准如上人の許可を得て、宇美村柳原の地に青葉山信行寺を建立し、名を了山と改めました。信行寺の開基は、1610年代と伝わっています。 〈観音堂〉 現宇美町神武原1丁目にある観音堂が、この信行寺であると伝承されています。宇美1丁目の現在地に移転するまで、青葉山信行寺として存立し、その後は観音堂として、柳原住民の方々によって代々護り継がれてきました。 移転の際、本尊阿弥陀如来が、「私はこの地にとどまり、皆の苦を永遠に取り除こう。ここに私は座り動くことはない」と言い、座像となってとどまったとの伝承があります。現在も、阿弥陀如来坐像を中尊に、観音菩薩像と勢至菩薩像が両脇に安置されています。 観音堂では、毎年7月17日にお祭りが行われています。これは、地域の大切な行事として、柳原住民により昔から現在まで受け継がれているものです。昭和12年(1937年)には、観音堂の再々建の工事が行われ、現在に至っています。 〈信行寺移転〉 江戸時代に、信行寺は現在の地に移転しました。移転は、井野の富豪、世利伊之吉によるところが多かったとの伝承があります。二千坪の敷地に、本堂、鐘楼、鼓楼、三重塔、山門等、壮麗な寺院が建立され、筑前の名所となったとの記述が残されています。しかしその後、火災にあい全焼したと言います。 〈圓成院南溪〉 信行寺からは、浄土真宗本願寺派の高僧と名高い、南溪和上が出ています。南溪は、子どもの頃より文武両道にずば抜けた才能を持ち、剣では神道無念流、小野一刀流に学び、学問では現在の修猷館高校と東京大学に学んだと言います。 西本願寺に入ってからは、真宗学、天台学、華厳学を学び、仏教学者となりました。その後、西本願寺を代表し、他宗との論難に応じ、宗内では多数講義を行い、真宗学の研鑽に勤めました。1855年には、本願寺派の最高学位である勧学を授けられ、1864には破格の圓成院の院号を授与されました。 著書に、『本典講録20巻』、『角毛偶語5巻』等多数。筑前学派の師と仰がれる。大分県玖珠町満福寺住職。 〈現在の信行寺〉 現在、第19世住職、坊守と、若院、若坊守のもと、ご縁のある方々に支えられ、寺院を運営しています。平成13年(2001年)には納骨堂・会館等再建工事が行われ、平成29年(2017年)には、駐車場増築工事が行われました。平成30年(2018年)には、開基400年記念法要を営みました。 行事では、各種法要や講座、子ども会などを積極的に行い、憩いの場を提供しています。また、開基400年記念寺業として、『勤行意訳本』(お経の意訳本)を編纂するなど、分かりやすく、おこなって良かったと思っていただける仏事作りに取り組んでいます。
信行寺へのアクセス
行き方
博多駅から車で30分、福岡空港から15分。 高速太宰府ICから車で15分、須恵IC(ETCのみ)より10分。 JR宇美駅から徒歩7分。 西鉄バス上宇美から徒歩5分。