筑前国分寺の基本情報
詳細情報
御由緒
奈良時代、天平13年(741年)聖武天皇は、仏教による地方政治の安定と、文化の交流をはかるため、国ごとに国分寺と国分尼寺の建立を命じられました。この一連の流れに従い、当寺も、筑前の国の国分寺として創立されました。 当初は、絢燭豪華を極める大寺院で、その広大さは現在境内にのこる、大きな柱の礎石にも、容易にうかがい知ることができます。 その後、歴史の流れに従い数々の兵火により、本堂はおろか堂・坊舎まで焼かれ、ほとんど廃絶に近いまで荒廃していた時代もあったとか... たまたま武蔵の国から来られた、廻国の修行僧が、形ばかりの草堂を再建した。 その後、数十年を経て元文年間(1736年)に中興の師、俊了、国中に浄財を募って小堂を建立した。 天明年間(1781年)に至り、僧・忍龍、山門を修理する傍ら、福岡黒田藩の長老・黒田美作より田地の寄付を受け寺の財産とする。 明治24年(1891年)中興一世・原 崇寿・本堂を再建し、坊舎を修繕しようやく一寺としての体裁を備うるようになった。 その後、二世・原 寿海・三世 原 法仙(尼僧)と住職を引き継ぎ昭和27年(1952年)3月 壇徒総代の絶大な協力のもと、台風と白蟻の被害に荒れる本堂を国庫の補助を受けて、大修理を行った。 四世・原 善信は、昭和27年(1952年)7月、母、法仙より住職としての業務を引き継ぎ。 昭和36年(1961年)6月、重要文化財である薬師如来を、火災から完全に守るため、壇信徒の支援を得て、その収蔵庫を完成させ万全を期した。 また、昭和49年(1974年)には、講堂兼庫裏50坪を改築し、壇信徒の集会等の場所を提供した。 なお、前記昭和27年住職の業務を引き継いでから、平成6年(1994年)7月人寂までの間、よく布教の拡大に勉め、納骨堂7堂を建立したほか、斎場兼納骨堂として新館四階建てを建立し、今日にいたっている。
札所
九州四十九院薬師霊場 第1番札所 筑紫四国八十八カ所霊場 第96番札所