大光寺の基本情報
詳細情報
御由緒
大光寺の創建は、推古天皇の(609)、百済より来朝した日羅上人の開基と伝える。 本尊の十一面観音の他、諸仏も上人の作という。ところが、宝亀5年(774)の落雷で本尊もろとも焼失した。後に行基菩薩が小堂を再建し、本尊も自ら刻んで安置したという。 寛平年間(889-897)、大宰府にいた藤原高房という人は観音信仰が厚く、観音像の造立を思い立って、唐より香木を求めようとしたが、叶わぬままに亡くなった。 その子・黄門侍郎が大宰府近くの海辺で光を放つ香木を見つけ、そこに書かれた文字から父高房が求めていた香木と知って喜び、千手観音像を2体彫らせた。 うち1体は摂州嶋下郡(大阪府茨木市)に一寺を建立して安置した。そしてもう1体を大宰府に持ち帰った。 ところがその尊像は、夜毎に光を放ちながら筑後の方に飛んで行き、また戻って来るので、あるとき黄門が尊像の行き先を追っていくと、そこには中に十一面観音像を祀る一宇の草堂があったという。 黄門は喜び、新しい堂宇を建立し、十一面観音像と自分の千手観音像を一緒に祀ることにした。このような縁から、この観音堂がある山を飛形山とびがたさんと呼ぶようになった。 その後、再び火災があって、堂・尊像ともに焼失したが、唯一焼け残った千手のうちの一手を、後に十時氏が新しく千手観音像を造り、その胎内に納めたという。 宝永3年(1706)谷中の村人たちが誓願を起こして堂を建立し、観音様を山から現在地に移したと伝えられる。 大光寺は、14年ほど前までは、井上宗規尼という尼住職が98歳まで独りで観音堂を守っていたが高齢で山を下り、現在は無住。同じ宗派で、すぐ近くの開運寺の住職が兼務している。 本尊のご開帳は子年で、12年に一度2日間だけという。