側高神社の基本情報
詳細情報
御由緒
◆創建 経津主神社三十六ヶ深秘書(長保二年香取大宮司神主左馬頭従五位上武名の奥書あり)に”瓊々杵尊降臨之時鎮座是高天原也”とある。天孫が御降臨あらせられたとき、経津主神(香取神社の祭神)が”高天原の神”を奉齋されたのが側高神社の起源である。 ◆概説 側高神社は元来が香取神宮第一の摂社であるから、側高神社の由緒は香取神宮の由緒でもある。又香取神宮の由緒は側高神社の由緒でもある。このことは香取神宮と鹿島神宮との関係についても言へる。 一口に”香取鹿島”という様に、香取神宮(祭神・経津主大神)と鹿島神宮(祭神・武甕槌大神)とは左右一体の神で、両神は神代の昔、天照大神の勅命を奉体して相共に国土平定の大任を成就せられた建国の大功神である。従って香取、鹿島両神宮の間には密接不離なる関わりのあることは申すまでもなく、各摂末社のことについても又同様である。そこで両武神が何故この東国の香取・鹿島の地に御鎮まりになられるのか、その理由について考えてたい。二柱の神は単なる武力の神ではなく、天神(あまつかみ)奉齋の重責をも兼任された祭祀の神でもあった。経津主大神は別名を齋主神と申し上げる如く天神を側高の地に奉齋され、武甕槌大神は”高天原”と呼ばれる聖地に天神を奉齋され、祭祀の大使命も成し遂げられたものと考えるのが至当であろう。香取神宮の側高山、鹿島神宮の高天原両聖地共に両神宮の東北東約二粁半ばかりの所に位置していることも偶然の符合ではない。そして、更に東北東という方向は高千穂(宮崎県)や大和地方(奈良県)よりしても略同方向である。このことは瓊々杵尊以来、御歴代の天皇が天神遙拝せられた方向、即ち地上に奉齋された高天原の方向であったことを示す。経津主神社三十六ヶ深秘書に”遙宮側高之山也”と記されていることに依っても古代祭祀の形態は明らかである。 斯く両武神は聖地守護の大命を遂行して香取、鹿島の地に御鎮りになったものである。