鶴形金刀比羅宮の基本情報
詳細情報
御由緒
金刀比羅宮は船乗りの守り神として、県沿岸の船乗りや漁民たちから信仰をあつめていた。明治・大正時代には、男鹿船川、土崎、金浦、岩館などの船乗りたちが、能代から人力車で参拝に訪れたという。 また近郷の農民たちも五穀豊穣・家内安全を願って参拝に訪れたため、祭典日ともなると鶴形名物の蕎麦屋台には長蛇の列ができ、村が狭く感じる程の人で大変賑わったという。 この金刀比羅宮を建立したのは、鶴形村で代々酒造業営んできた小林家の十三代当主七右衛門正舜(しちえもんまさかつ)である。正舜は少年時に天然痘にかかってしまったが、四国の金比羅神社祈願したところ九死に一生を得て完治したという。以来金比羅神社への信仰を篤くし、何度も参拝に訪れたという。 やがて金比羅神社より御分霊を拝領し、鶴形村に堂宇を建立することを決意。社殿は江戸時代末期の安政二年(一八五五)に起工したが、彫刻も含め全て完成したのは文久三年(一八六三)であった。 建築棟梁は同村の笠井喜右衛門、彫刻棟梁は能代門前の石山孫右衛門。社殿に施された多様な彫刻には当時の細部技法がよく表れており、彫刻師の意気込みが伝わってくる。 総工費は六千三百八十両。これほどの資金調達できたのは、正舜が北方郡奉行所勘定方と郡内肝煎を兼任し苗字帯刀御許預り証を有していた鶴形村一の資産家であったからだろう。 現在の当主は十七代目小林昭一氏(東京都在住)である。 平成二十二年に、鶴形地区の有志により、社殿並びに境内地の大規模な修復事業が行われ、往時の姿を今に留めている。 文責 宮司 小笠原千賀子