長福寺の基本情報
詳細情報
アクセス
アクセス[編集] 参道沿いには参拝者用の駐車場がある。公共交通機関を利用する場合は、名鉄名古屋本線有松駅にある名古屋市営バス「名鉄有松」バス停から「有松12号系統」あるいは「緑巡回系統」に乗車し、「桶狭間寺前」バス停で降車する(2015年(平成27年)3月現在)。なお、長福寺周辺には桶狭間の戦いにまつわる史跡が多く点在し、有松駅を起点もしくは終点として徒歩で史跡を巡りながら長福寺を訪れる参拝者・観光客も多い[1]。 ^ 緑区あちこちマップ-桶狭間地区(PDFファイル、1.41メガバイト)(名古屋市ウェブサイト、2012年7月8日閲覧)
行き方
名鉄名古屋本線「中京競馬場前」駅から徒歩18分
歴史
沿革[編集] 『張州雑志[注 1]』には美濃国山県郡溝口村[注 2]にある慈恩寺の末寺とある[1]。開山は室町時代後期(戦国時代)の1538年(天文7年)、善空南立(ぜんくうなんりゅう)上人によるといい、桶狭間の戦いの折りには当地に到着した今川勢を饗応し、労をねぎらったという逸話を持つ[2]。 ただし、『張州雑志』によるところの善空南立の没年は1701年(元禄14年)とあり[1]、室町時代後期の開山からその死までの期間が少なくとも160年以上を数えるというのは不合理であるため、彼は江戸時代初期の僧侶であり、当時衰退していた長福寺を立て直した中興の開山としてその名を残しているとする見方もあ...Wikipediaで続きを読む
御由緒
和光山天澤院と号する浄土宗西山派(現在、西山浄土宗)の寺院。天文七年(1538)、善空南立上人の中興開山。永禄三年(1560)五月、今川義元の軍勢が、桶狭間に到来すると、この寺の僧は酒食を献じたと伝えられる。この後、戦況は織田信長に有利に展開し、今川義元はこの地で討死にする。 寺伝に依れば、当山は今川義元に仕える林阿弥が、今川方武将の首検証を命じられた所で、境内に放生池は、別名「血刀濯ぎの池」と言われている。御本尊の阿弥陀如来像は、林阿弥が駿府から持参したもので、今川義元ら戦没者を供養するために奉安されたものである。駿府から寄付された諸品の内に、今川義元の御霊像があったが、火災のために焼失したという。現在、当山に安置される今川義元像は、今川家の縁者、渡邊家(三河江原村)が、正徳四年(1714)に奉納したものである。
引用元情報
「長福寺 (名古屋市緑区)」『ウィキペディア日本語版』。この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E9%95%B7%E7%A6%8F%E5%AF%BA%20(%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B8%82%E7%B7%91%E5%8C%BA)&oldid=88931914
概要
長福寺(ちょうふくじ)は、愛知県名古屋市緑区にある西山浄土宗(浄土宗西山派の一派)の寺院である。山号を和光山(わこうざん)、院号を天沢院(てんたくいん)と称する。本尊は阿弥陀如来である。1560年6月12日(永禄3年5月19日)の桶狭間の戦いにおいて敗死した今川義元の供養寺として知られている。
長福寺へのアクセス
アクセス
アクセス[編集] 参道沿いには参拝者用の駐車場がある。公共交通機関を利用する場合は、名鉄名古屋本線有松駅にある名古屋市営バス「名鉄有松」バス停から「有松12号系統」あるいは「緑巡回系統」に乗車し、「桶狭間寺前」バス停で降車する(2015年(平成27年)3月現在)。なお、長福寺周辺には桶狭間の戦いにまつわる史跡が多く点在し、有松駅を起点もしくは終点として徒歩で史跡を巡りながら長福寺を訪れる参拝者・観光客も多い[1]。 ^ 緑区あちこちマップ-桶狭間地区(PDFファイル、1.41メガバイト)(名古屋市ウェブサイト、2012年7月8日閲覧)
行き方
名鉄名古屋本線「中京競馬場前」駅から徒歩18分